日本人が「知ってはいけない」、日本とアメリカの「本当の関係」…日本の戦後史最大の「謎と闇」

日本には、国民はもちろん、首相や官僚でさえもよくわかっていない「ウラの掟」が存在し、社会全体の構造を歪めている。

そうした「ウラの掟」のほとんどは、アメリカ政府そのものと日本とのあいだではなく、じつは米軍と日本のエリート官僚とのあいだで直接結ばれた、占領期以来の軍事上の密約を起源としている。

『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』では、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」を参照しながら、日米合同委員会の実態に迫り、日本の権力構造を徹底解明する。
*本記事は矢部 宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)から抜粋・再編集したものです。

日米両国の「本当の関係」とは?

安保関連法を強引に可決させた安倍首相は、おそらく日本が集団的自衛権を行使できるようになれば、アメリカと「どんな攻撃に対しても、たがいに血を流して守りあう」対等な関係になれるという幻想を抱いているのでしょう。

しかし、それは誤解なのです。アジアの国との二国間条約である日米安保条約が、集団的自衛権にもとづく対等な相互防衛条約となることは、今後も絶対にありえないのです。

事実、指揮権密約をみてもわかるとおり、現在の日米の軍事的な関係では、日本側が軍事力を増強したり、憲法解釈を変えて海外へ派兵できるようになればなるほど、米軍司令官のもとで従属的に使われてしまうことは確実です。

つまり集団的自衛権というのは、現在の日米安保条約とは基本的に関係のない概念なのです。ところが、それにもかかわらず、なぜかアメリカの軍部からの強い働きかけによって、2015年9月、その行使のための国内法が強行採決されてしまいました。

それではこの日米両国の「本当の関係」とは、いったい何なのでしょう。このあまりに不平等な関係が、どういう国際法のロジックによって正当化されているのでしょう。

その疑問を晴らすために、先ほど見た1950年10月の旧安保条約・米軍原案から、さらにもうひとつ前の段階の「条文」にさかのぼって調べてみることにしました。

すると驚いたことに、そこですべての謎が解けてしまうことになったのです。

「日本全土を米軍の潜在的基地にする」

下が米軍原案の4ヵ月前(1950年6月)に書かれた、その問題の「条文」です。まず読んでみてください。

○ 日本全土が、米軍の防衛作戦のための潜在的基地とみなされなければならない。
○ 米軍司令官は、日本全土で軍の配備を行うための無制限の自由をもつ。
○ 日本人の国民感情に悪影響を与えないよう、米軍の配備における重大な変更は、米軍司令官と日本の首相との協議なしには行わないという条項を設ける。しかし、戦争の危険がある場合はその例外とする。

「なんだこれは。さっきの米軍原案と、ほとんど一緒じゃないか」

と思われたかもしれません。

そのとおりです。

しかしこの「条文」の重要性は、その内容ではないのです。

問題はこれを書いた人物が、そのわずか4年前に憲法9条をつくり、その後も、

「日本の本土には絶対、米軍基地は置かない」

と言い続けていたマッカーサーだったということです。

そのマッカーサーが、なんと、

「日本全土を米軍の潜在的基地にする」

というような、おかしくなってしまったかのような「条文」を、突如として書いていた。しかも彼がこの「条文」を書いたのは、1950年6月23日。朝鮮戦争が起こるわずか2日前だったというのです。

このあまりに不可解な「6・23メモ」と呼ばれる報告書の背景を調べることで、結果として日本の「戦後史の謎」における最後のピースが見つかり、私が2010年以降続けてきた「大きな謎を解く旅」も、ようやく終わりを告げることになったのです(「6・23メモ」第2項参照。https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1227)。

マッカーサーの迷い

どんな国にも、その国の未来を決めた重大な瞬間というものがあります。

「戦後日本」の場合、それは間違いなく、朝鮮戦争が起こった1950年6月だったといえるでしょう。開戦日(6月25日)を挟んだほんの数日のあいだに、日本のあるべき未来の姿は、大きく転換することになったのです。

ここで当時の状況を少しだけ振り返っておきましょう。

第二次大戦での敗戦から、日本の占領はすでに五年近く続いており、占領軍を指揮するマッカーサーとアメリカ国務省は、できるだけ早く占領を終わらせたいと考えていました。そのままズルズル占領を続けてしまうと、アメリカ自身が定めた「領土不拡大」の原則に違反していると批判されるおそれがあったからです。

一方、アメリカの軍部は、日本の占領終結には絶対反対の立場をとっていました。

というのも、その前年の1949年10月に誕生した共産主義の中国(中華人民共和国)が、この年の2月に同じ共産主義国であるソ連と手を結び、日本とそこに駐留するアメリカを仮想敵国と位置づけた軍事同盟(「中ソ友好同盟相互援助条約」)を成立させていたからです。

憲法9条で日本に戦力放棄をさせていたマッカーサーも、さすがに以前のように、

「沖縄に強力な空軍をおいておけば、アジア沿岸の敵軍は確実に破壊できる」
「だから日本の本土に軍事力は必要ない」〔=憲法9条2項は間違っていない〕

などと言える状況ではなくなっていました。そして「平和条約を結んだあとも、米軍は日本への駐留を続ける」という軍部の提案にも理解を示し始めていたのですが、その大きな方針転換をどのようなロジックで行えばいいか、考えあぐねていたのです。

朝鮮戦争を逆手にとったダレス

そんな状況のなかで、突如、朝鮮戦争が起こってしまった。

ふつうに考えたら、日本を独立させることなど、もう絶対に不可能なわけです。そんなことを軍部が許すはずがありません。

ところがそのとき、持ち前の豪腕で事態を急転させたのが、日米安保体制の産みの親となるジョン・フォスター・ダレスでした。

わずか2ヵ月前に国務省の顧問に就任したばかりで、朝鮮戦争の開戦時にちょうど日本を訪問中だったダレスは、この朝鮮戦争を逆手にとって軍部に日本の独立を認めさせるという荒業を、みごとに成功させるのです。

そのとき軍部の説得のための有力な材料として使われたのが、先ほど紹介したマッカーサーの「6・23メモ」でした。

「中国とソ連が加担したこの大戦争に勝利するには、隣国である日本の戦争協力がどうしても必要です。日本の独立に賛成してもらえれば、必ずそのひきかえとして、日本に全面的な戦争協力を約束させます。このメモを見てください。以前は日本の独立後の米軍駐留に反対されていたマッカーサー元帥も、現在は日本全土を基地として使い続けるという構想を持っておられます」

というのが、ダレスのロジックだったのです。

このダレスの粘り強い説得工作が成功した結果、軍部もようやく納得し、朝鮮戦争の開戦から2ヵ月半後の1950年9月8日には、

○ アメリカは日本中のどこにでも、必要な期間、必要なだけの軍隊をおく権利を獲得する。
○ 軍事上の問題については平和条約から切り離した別の二ヵ国協定〔のちの旧安保条約〕をつくり、その原案は国務省と国防省が共同で作成する〔つまり、軍部が中心となって作成する〕。

といった基本方針を条件に、対日平和条約の交渉の開始が、トルーマン大統領によって承認されることになったのです。

「6・23メモ」の謎

突如起こった朝鮮戦争という大きなマイナスを、逆に暗礁にのりあげていた対日平和条約を動かすためのプラスの力として利用する──。人間としての好き嫌いは別にして、ダレスというのは本当に仕事のできるスゴ腕の男だったと思います。

しかし、そこにはどう考えても腑に落ちない点があるのです。というのはマッカーサーもダレスも朝鮮半島で戦争が起こるとは、6月25日の当日までまったく考えていませんでした。ダレスなどは開戦の一週間前に韓国にわたり、38度線も視察したあと、日本に戻った6月21日に、

「現在、朝鮮半島には、差しせまった危険はありません」

と報告していたくらいだったのです。

そうした状況のなかで、どうしてマッカーサーが開戦わずか2日前の6月23日に、その後、軍部への説得材料になるような、「日本全土を米軍の潜在的基地にする」という、従来の方針を180度転換した報告書(メモ)を書くことができたのでしょうか。

そのタイミングと内容が、あまりにも不自然なのです。

そう疑問に思ってもう一度、ネット上でアメリカ国務省が公開している「6・23メモ」の原文をみてみると、そこには脚注として次のように書かれていました。

「このメモは、本資料集に収録されていない6月29日のアリソン氏〔当時、国務省の北東アジア局長で、ダレスの東京訪問の同行者〕のメモに、4番目の添付資料としてファイルされていたものです」

つまり、この資料集(『アメリカ外交文書(FRUS)』)を編纂しているアメリカ国務省歴史課のスタッフは、

「このメモがその日付どおり6月23日に書かれたものだと証言しているのは、ダレス氏とその部下のアリソン氏だけです」

という事実をわざわざ教えてくれているのです。

ですから、この問題について歴史的に確定した事実をまとめると次の4点になります。

(1) このマッカーサーのメモが6月23日に書かれたと証言しているのは、ダレスとその部下のアリソンだけである。

(2)マッカーサーはこの「6・23メモ」に書かれた内容について、前日の6月22日だけでなく、実は朝鮮戦争の起きた翌日の26日にもダレスと会談をしていた(後出のダレスの「6・30メモ」についての「解説」(→244ページ)と、リチャード・B・フィン著『マッカーサーと吉田茂』同文書院インターナショナル参照)。

(3) 「6・23メモ」の内容は「日本全土を潜在的米軍基地にする」など、それまでのマッカーサーの方針を極端なかたちで180度転換するものだった。

(4)ダレスは6月25日の朝鮮戦争の開戦後、軍部を説得する有力な材料としてこの「6・23メモ」を使い続けた。

これらの事実を総合すると、常識的に考えてこの「6・23メモ」が、朝鮮戦争の開戦前の会談(23日)ではなく、開戦後の会談(26日)をもとに、マッカーサーとダレスの共同作業によって作られたものであることは確実です。

つまり、ダレスが朝鮮戦争の勃発を受けて、新たな「対日方針」を急遽作成した。けれどもプライドの高いマッカーサーの体面を保つために、メモの日付をごまかして、その180度の大方針転換が、すでに朝鮮戦争の開戦前に行われていたことにしてやったということです。

ここでどうして私が、これほどひとつの報告書の日付にこだわったかというと、この「6・23メモ」という報告書が、文字どおり日本の命運を決したもうひとつの非常に重要な報告書と、セットで書かれたものであることがわかっているからです。

その報告書の名を「6・30メモ」といいます。こちらはマッカーサーではなくダレス自身の名で、彼が日本訪問から帰国したあと、「6・23メモ」の内容について解説したものです。そしてそこには日本の「戦後史の謎」を解くための、最後のカギが隠されていたのです。

解説 「6・30メモ」

ダレスはこの報告書(1950年6月30日にアチソン国務長官など8人へ送付)のなかで、6月下旬に行われたマッカーサーとの2度の会談〔6月22日と26日〕を振り返るかたちで、次のように述べています。(以下、概要)

〈6月22日の朝、私はマッカーサー元帥と会談し、次のことを述べた。

日本と平和条約を結んだあと、米軍がどのようにして日本に駐留を続けるかという問題については、それが単にアメリカの利害にもとづくものではなく、「国際社会全体の平和と安全」という枠組みのなかで行われることが望ましい。だから米軍基地の提供も、国連憲章43条のなかの「軍事上の便益の提供」というコンセプトにもとづいて行われた方がいい。そういって、私は次のメモをマッカーサー元帥に渡した。

「本来の国際法の流れでは、

1.日本が平和条約を結ぶ。
2.日本が国連に参加する。
3.そしてそのとき国連が完全に機能していれば、国連憲章43条がさだめるとおり、日本は国連安保理と「特別協定」を結んで、軍事上の「便益」を安保理に提供することが可能になります。
4.ところが現在、43条でさだめられた「特別協定」は実現しておりません。その場合、わが国をふくむ安保理常任理事国・五ヵ国には、国連憲章106条によって、「特別協定が効力を生じる〔=国連軍ができる〕までのあいだ」に限り、「国際平和と安全のために必要な行動」を「国連に代わってとる」ことが認められております。

そこで提案なのですが、日本は自国の国連加盟が実現し、加えて国連憲章43条の効力が発生する〔=国連軍ができる〕までのあいだ、ポツダム宣言署名国〔=連合国〕を代表するアメリカとのあいだに、「特別協定」に相当する協定〔=旧安保条約〕を結び、アメリカに軍事基地を提供する。国連軍構想が実際に動きだせば、それらの基地は国連軍の基地となる。

そういう考え方でいかがでしょうか」

マッカーサー元帥はそのときと次の会談〔6月26日〕のとき、その考えに全面的に賛同され、「これなら日本人も受け入れやすいだろう」と述べられた〉
(原文:https://history.state.gov/historicaldocuments/frus1950v06/pg_1229

「大きな謎を解く旅」の終わり

このダレスの「6・30メモ」を「発見」したことで、私の7年間におよぶ「大きな謎を解く旅」も、ようやく終わりを告げることになりました。

米軍が自分で条文を書いた「旧安保条約・米軍原案」(1950年10月27日案)のさらに奥に、ダレスが全体のコンセプトを示した「6・30メモ」(同年6月30日案)があったということです。それをチャートにすると、次のとおりです。

(1) 朝鮮戦争の開戦直後に、ダレスが軍部を説得するためにつくった「6・30メモ」
  (1950年6月30日)
      ⇩
(2)朝鮮戦争のさなかに、軍部自身がつくった「旧安保条約・米軍原案」
  (1950年10月27日)
      ⇩
(3) 戦後、日米間で結ばれたオモテ側の条約や協定 + 密約
  (1951年~現在)

これで終わりです。

「突然の朝鮮戦争によって生まれた「占領下での米軍への戦争協力体制」が、ダレスの法的トリックによって、その後、60年以上も固定し続けてしまった」

ということです。

だから現在、私たちが生きているのは、実は「戦後レジーム」ではなく「朝鮮戦争レジーム」なのです。朝鮮戦争はいまも平和条約が結ばれておらず、正式に終わったわけではない(休戦中)ので、当時の法的な関係は現在もすべてそのまま続いているからです。

そして最後に、もっとも重要なことは、これから私たちがその「朝鮮戦争レジーム」を支える法的構造に、はっきり「NO」と言わない限り、ダレスの「6・30メモ」や「旧安保条約・米軍原案」に書かれていたその内容が、今後も少しずつ国内法として整備され、ついには完成されてしまうということです。

日本の戦後史に、これ以上の謎も闇も、もうありません。

さらに連載記事<なぜアメリカ軍は「日本人」だけ軽視するのか…その「衝撃的な理由」>では、コウモリや遺跡よりも日本人を軽視する在日米軍の実態について、詳しく解説します。

本記事の抜粋元『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』(講談社現代新書)では、私たちの未来を脅かす「9つの掟」の正体、最高裁・検察・外務省の「裏マニュアル」など、日本と米国の知られざる関係について解説しています。ぜひ、お手に取ってみてください。

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