明治新政府が使った驚きの「神武天皇マジック」…都合よく利用された「神武天皇」

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「戦前」とは何だったのか。

神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。

「神武天皇」は「明治維新」で新政府にとって都合が良かった…新政府が利用した「巧妙なロジック」」でみたように、明治新政府は「神武創業」のことばのもと、神武天皇の時代にもとづいて、政治をおこなった。神武天皇の時代は古く、記録が残っていないために、都合が良かったのだ。

このような「神武天皇マジック」は、さまざまなところで使われていた。本記事では、その中でも、紀年法の採用についてくわしくみていく。

※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。

皇紀に込められた思い

紀年法の採用でも、同じように神武天皇マジックが使われた。

日本ではそれまで、元号で年を把握していた。ただ、元号は代替わりや大きな事件などのたびに変わり、時系列での把握がむずかしかった。安政3年、慶応元年といわれても、安政のほうが慶応より早いと知っておかなければ前後がわからないし、また両者の間にどれくらい間隔が開いているかは別に計算しなければならない。

その点、西洋ではキリストの誕生年を紀元としているため(西暦)、全体像をつかみやすい。第1回十字軍は1096年、東ローマ帝国の滅亡は1453年、フランス革命の発生は1789年という具合だ。

そのため、日本でも独自の紀年法が必要ではないかという議論が起こった。とはいえ、西暦をそのまま採用するのははばかられる。そこで考えられたのが、神武天皇の即位した年を紀元とする、神武天皇即位紀元(神武紀元、皇紀)の創設だった。

これなら便利だし、日本人としてのプライドも保ちやすい。ただ、問題もあった。神武天皇の即位日は『日本書紀』に「辛酉年(かのとのとりのとし)の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたちのひ)」と書かれているばかりで、具体的にいつなのかよくわかっていなかった。

そこで1872(明治5)年、太陽暦の採用を機に算定が行われたが、なにぶん古いテキストなので紆余曲折があった。紀元はいったん紀元前660年の1月29日に定められたものの、1873(明治6)年、あらためて同年の2月11日に定められた。今日の「建国記念の日」(戦前は紀元節)の起源である。

もちろん、神話上のことだから、確たる根拠があるわけではない。ただ、それは西暦も同じこと。本当にキリストが西暦元年に生まれたかははなはだ疑わしい。とにかく重要なのは、神武天皇の即位日が確定したことで、日本独自の紀年法が可能になったことだ。たとえば、今年2023年は、660を足して、皇紀2683年に換算できる。

もっとも、結果的に皇紀が広く使われたわけではなかった。戦前、広く使われたのは西暦もしくは元号だった。それでも、皇紀は国威発揚にはもってこいだった。西暦より660年も長いため、日本の建国がいかにも古く感じられるからだった。

同じような紀年法は、近隣の国にも存在する。清朝の黄帝紀元、韓国の檀君(だんくん)紀元がわかりやすい。いずれも伝説上の君主をもとにしており、檀君紀元だと2023年はなんと4356年にもなる。

また皇紀は兵器の名称にも使用された。

日本海軍の有名な戦闘機にゼロ戦がある。百田尚樹の小説『永遠の0』、宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』などにでてくるあの名機だ。正式には零式艦上戦闘機というが、このゼロは正式採用された年、すなわち皇紀2600(西暦では1940)年の末尾から取られている。

このように皇紀は、象徴的な場面で効果的に使われた。現在でも、神社の紀年法は皇紀のばあいが多いので、初詣のときなどに確認してみるとよい。

本記事の抜粋元『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』ではさらに、明治維新から大東亜戦争まで、日本の神話がどのように利用されてきたのかを解説しながら、それに関連するエピソードを紹介している。