日本人が知らない、「八紘一宇」の本当の意味

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「戦前」とは何だったのか。

神武天皇、教育勅語、万世一系、八紘一宇……。右派も左派も誤解している「戦前日本」の本当の姿とは何なのか。

日中戦争下の1940(昭和15)年11月10日、昭和天皇、香淳皇后臨席のもと、内閣主催の紀元2600年式典が宮城外苑で厳かに挙行された。神武天皇の即位より2600年の節目を祝うイベントである。

本記事では、神武天皇の即位までのプロセスと、神武天皇が唱えたとされる「八紘一宇」について、くわしくみていく。

※本記事は辻田真佐憲『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』から抜粋・編集したものです。

国が認定した神武天皇「東征ルート」

皇紀2600年には神武天皇聖蹟(せいせき)の調査保存顕彰が記念事業として文部省で行われることになった。こちらは明確に政府主導である。そのために、1938(昭和13)年12月、神武天皇聖蹟調査委員会が設けられた。

会長には、東京帝国大学名誉教授で歴史学者の三上参次(みかみさんじ)が就いたが、まもなく死去したため、筑波藤麿(つくばふじまろ)があとを継いだ。

筑波は山階宮菊麿(やましなのみやきくまろ)王の第三子であり、臣籍降下して侯爵を授けられた。学究肌で軍人にはならなかったが、戦後ははじめての靖国神社の宮司となり、30年以上にわたって同社の改革に努めた。いわゆるA級戦犯の合祀には慎重だったといわれる(そのため合祀の実現は、次代の松平永芳宮司の就任を待たなければならなかった)。

この国の事業により、1940(昭和15)年7月、つぎの箇所が保存顕彰すべき聖蹟として認められた(地名は現在のもの。神社の境内もしくは近所のものはその社名を添えた)。

1:菟狭(うさ)推考地 大分県宇佐市(宇佐神宮)
2:崗水門(おかのみなと)福岡県遠賀郡芦屋町(戦後、近くの神武天皇社に移された)
3:埃宮多祁理宮(えのみやたけりのみや)伝説地 広島県安芸郡府中町(多家神社)
4:高嶋宮(たかしまのみや)伝説地 岡山市(高島神社)
5:難波之碕(なにわのみさき)大阪市(大阪天満宮)
6:盾津(たてつ)推考地 大阪府東大阪市
7:孔舎衛坂(くさえのさか)伝説地 大阪府東大阪市
8:雄水門(おのみなと)伝説地 大阪府泉南市(男神社摂社浜宮)
9:男水門(おのみなと)伝説地 和歌山市(水門吹上神社)
10:名草邑(なくさむら)推考地 和歌山市
11:狭野(さぬ)和歌山県新宮市
12:熊野神邑(くまぬのかみのむら)和歌山県新宮市(阿須賀神社)
13:菟田穿邑(うだのうかちのむら)奈良県宇陀市
14:菟田高倉山伝説地 奈良県宇陀市
15:丹生川上(にうのかわかみ)奈良県吉野郡東吉野村(丹生川上神社中社)
16:磐余邑(いわれのむら)推考地 奈良県桜井市(吉備春日神社)
17:鵄邑(とびのむら)奈良県生駒市(天忍穂耳神社)
18:狭井河之上(さいがわのほとり)推考地 奈良県桜井市(大神(おおみわ)神社)
19:鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのにわ)伝説地 奈良県桜井市(等彌(とみ)神社)

例によって、神武天皇の東征ルートも『古事記』と『日本書紀』で微妙に異なっている。この聖蹟はそれぞれを参照しながら定められた。

たとえば、1の菟狭は記紀両方に掲載されているが、2の崗水門は『日本書紀』のみ。3の埃宮多祁理宮は、『日本書紀』に埃宮、『古事記』に多祁理宮と記されているものを、ひとつとしてまとめた。

また、聖蹟候補となった場所でも、調査の結果、採用されないこともあった。神武天皇たちがいた高千穂宮がそうで、宮崎神宮を候補地として推していた宮崎県を落胆させた。また神武天皇が出航した場所はそもそも記紀に掲載がないため、どこも採用されなかった。

文部省の事業で聖蹟として認定された場所には、1941(昭和16)年11月までにすべて記念碑が建てられた(図1、2)(※外部配信でお読みの方は現代新書の本サイトでご覧ください)。


図1。神武天皇聖蹟菟狭顕彰碑(2021年11月著者撮影)

形状はほぼ同一で、台座のうえに高さ約3メートルの四角柱の碑が立っている。装飾性は低く、正面に大きく「神武天皇聖蹟(地名)顕彰碑」と刻まれて、背面にその説明が記されている。

良質の花崗岩が選ばれただけあって、筆者もひととおり見に行ったけれども、現在でもほとんど劣化していない。ただし、一部場所が移されたり、参道が破壊されて見物が困難なものもある。

図2。神武天皇聖蹟一覧(文部省『神武天皇聖蹟調査報告』) 橿原宮、ヒコイツセの陵墓である竈山はすでに認定されているので、皇紀2600年にはあらためて保存顕彰しないこととされた。

これにたいして、美々津町の「日本海軍発祥之地」や、東串良町の「神武天皇御発航伝説地」は、あくまで宮崎県や鹿児島県が建てたものなので、形状が異なっている。同じ神武天皇の記念碑といっても、背景はバラバラだったのである。

神武天皇、即位までのプロセス

このようにすべての地点を網羅したわけではなかったものの、文部省の記念碑をたどるだけで、なんとなく神武天皇(イワレヒコ)のルートはつかめる。

イワレヒコは政治の拠点をより国の中心に近い大和に移そうと決意した。『日本書紀』によると、そのとき45歳だった。そして九州南部より出発して、現在の宇佐市(1)、北九州市近郊(2)、広島市近郊(3)、岡山市(4)に立ち寄りながら、大阪湾に上陸した。

「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』第1章でも指摘したが、当時の大阪湾は河内平野に深く浸食しており、潟湖(せきこ)を形成していたといわれる。難波之碕(5)は、大阪湾と潟湖をつなぐ狭い水域であり、波が速かった。そのため「浪速国」とされた。

イワレヒコの軍勢は、河内国(かわちのくに)の白肩津(しらかたのつ)(別名、盾津)に上陸した(6)。ところが、孔舎衛坂(7)で地元の豪族ナガスネヒコの迎撃にあい、イワレヒコの兄ヒコイツセが負傷してしまう。そのため、ふたたび船に乗って紀伊半島に迂回することになった(太陽神の子孫なのに、太陽に向かって戦う──つまり西から攻め上るのはよくないとされた)。

ヒコイツセはまもなく、傷が原因で死去。そのとき雄叫びしたため、その場所は『日本書紀』では雄水門(8)、『古事記』では男水門(9)と記されている。前者は、現在の大阪府泉南市、後者は和歌山市にあたる。

その後、イワレヒコの軍勢は、和歌山市南部(10)、新宮市(11、12)をへて、熊野荒坂津(あらさかのつ)に上陸した。そして八咫烏の導きにより、険しい紀伊山地を踏破して、ようやく奈良県南部の宇陀市に到着した(13、14)。

イワレヒコはここから、抵抗する勢力をつぎつぎに平伏させていく。吉野郡東吉野村の丹生川上で神々を祀り(15)、桜井市に軍勢を集めていた兄磯城(えしき)を撃破(16)。そして北上して、生駒市で宿敵のナガスネヒコを打ち破った(17)。金の鵄(とび)が輝いて、ナガスネヒコの軍勢を幻惑したのはこのときである。

こうして奈良盆地を平定したイワレヒコは、橿原市に都を開き、初代天皇に即位した。

そして天皇は、桜井市の狭井河のほとりで出会ったイスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売)を皇后に迎えた(18)。これは『古事記』の表記で、『日本書紀』ではヒメタタライスズヒメ(媛蹈韛五十鈴媛命)という。また天皇は、国を平定できた感謝を述べるため、桜井市南部の鳥見山に祭壇を設けて天つ神を祀った(19)。

以上が記念碑にもとづく、神武天皇の行程である。

田中智学が造語した「八紘一宇」

さて、問題の八紘一宇がでてくる箇所をみてみよう。
イワレヒコは東征を終え、橿原に都をつくることを決意した。『日本書紀』では、天皇に即位するまえにつぎのように述べたとされる。

上は乾霊(あまつかみ)の国を授けたまひし徳(みうつくしび)に答へ、下は皇孫(すめみま)の正(ただしきみち)を養ひたまひし心を弘めむ。然して後に、六合(くにのうち)を兼ねて都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いえ)にせむこと(引用者註、漢文では掩八紘而為宇)、亦可からずや。観れば、夫(か)の畝傍山の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区(もなかのくしら)か。治(みやこつく)るべし。

現代語訳を引けば、「上は天神の国をお授け下さった御徳に答え、下は皇孫の正義を育てられた心を弘めよう。その後国中を一つにして都を開き、天の下を掩いて一つの家とすることは、また良いことではないか。見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。ここに都を造るべきである」(宇治谷孟訳)となる。

わかりやすい現代語訳があるのに、あえて原文の書き下しを引いたのはなぜか。それは、八紘一宇という四字熟語がそのまま出ているわけではないということを知ってもらうためだ。

よく知られるように、八紘一宇ということばは、日蓮主義者の田中智学によって1913(大正2)年3月に造語された。

国立国会図書館のデジタルコレクションでは、より先行する使用例が見つかるのだが、後世に影響があったのは田中によるものである。田中はそれ以前に天下一宇ということばも使っている

では、その意図するところとはなんだったのか。

田中はまず、戦争など世界の不安をなくすためには、世界を統一しなければならないと説く。ただし、それは人欲にもとづく侵略的世界統一ではなく、天意にもとづく道義的世界統一でなければならないという。

ここまでは理解できないこともない。ただし田中はそこから、道義的世界統一の理念を示したのは神武天皇だと議論を進める。

その根拠が、さきほど引用した部分の冒頭だった。そこで神武天皇は「養正」と述べている。田中はこれを「正義即ち忠孝の理想」と解釈する。つまり神武天皇は道義を打ち立てたのちに(「然して後に」)、世界をひとつの家にするという理想を述べている。これこそ、道義的世界統一にほかならない、と。

そして神武天皇によって示された忠孝を根本とする日本人は、この統一を実現する使命があるとつづくのである。

世界人類を還元し整一する目安として忠孝を世界的に宣伝する、あらゆる片々道学を一蹴して、人類を忠孝化する使命が日本国民の天職である、その源頭は堂々たる人類一如の正観から発して光輝燦爛たる大文明である、これで行り遂げようといふ世界統一だ、故に之を「八紘一宇」と宣言されて、忠孝の拡充を予想されての結論が、世界は一つ家だといふ意義に帰する、所謂「忠孝の延長」である、忠孝を一人一家の道徳だと解して居るうちは、忠も孝も根本的意義を為さない、「根なし草」の水に浮べる風情である、忠孝を以て人生の根本義とするところに日本建国の性命はある。 (『日本国体の研究』)

文章が切れ目なく続いていて読み取りにくいが、田中がなにを言わんとしていたかはなんとなくわかるだろう。

神武天皇が道義にもとづいて打ち立てた日本は、道義的世界統一を行う使命がある──。「道義的」は後期水戸学(『「戦前」の正体 愛国と神話の日本近現代史』第2章)に通じ、「世界統一」は国学(同書・第4章)に通じるものがある。

神武天皇が述べた「八紘を掩ひて宇にせむ」は、せいぜい東征ののちは平和的に日本を統治しようというていどの意味だったと考えられる。それがまさか、世界統一の話になろうとは。『日本書紀』の編者たちが知ったら驚くにちがいない。


辻田 真佐憲