日本にある「世界最古の企業」が1,400年以上も続いてきた理由…代々受け継がれる「後継者の条件」とは【経済ジャーナリストの分析】

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(※写真はイメージです/PIXTA)

中小企業や名前の知られていない中堅企業にも良い会社はたくさんあります。 その見分け方がわかれば、転職等のキャリア形成、営業先の開拓、投資の是非の判断といったあらゆる局面で役立ちます。本記事では東洋経済新報社で編集委員を務める経済ジャーナリストの田宮寛之氏が、著書『ビジネスエリートが実践している 教養としての企業分析』(自由国民社)から、優良企業を見分けるための「企業分析」のポイントを解説します。

創業1,000年超の会社が10~20社もあるという事実!

東京商工リサーチによれば、2023年末までに国内で創業100年以上となる企業は4万2,966社あります。
日経BPが2019年に行った調査では、創業100年超企業が世界で一番多いのは日本でした。

ところで、読者の皆さんは世界で一番古い企業がどこにあるか知っていますか。
実は世界最古の企業は日本にあるのです。

[図表1]金剛組ホームページ

大阪の金剛組という建設会社で、創業は飛鳥時代の578年。聖徳太子は四天王寺を建立するために朝鮮(百済)から技術者を招聘しました。そのうちの一人が金剛組初代の金剛重光という人なのです。

現在は41代目の子孫が在籍しています。金剛組は1,400年以上も寺や神社を作り続けています。

1,000年以上の企業は金剛組だけではありません。

国内には10~20社程度の1,000年企業があります。奈良県に本社を置く五位堂工業は老舗鋳物メーカーですが、正確な創業年は分かりません。しかし、奈良時代の745年に東大寺の大仏「盧舎那仏像」の建立に携わったとの資料は残っているので、約1,300年の歴史を持つことはたしかです。

戦国時代末期の1614年には京都・方広寺の大鐘の建造に携わりました。この方広寺の大鐘とは、秀吉亡き後の豊臣家が建造したものです。鐘に刻まれた「国家安康」の文字に徳川家康が難癖をつけ、それが「大阪冬の陣」のきっかけになったという有名な鐘です。

現在は祖業である鋳造の技術を使って、船舶用エンジン部品や工作機械用部品などを製造しています。
フランスに創業200年超の老舗企業のみが加盟を許される「エノキアン協会」という団体があります。
エノキアンという名称は、『旧約聖書』に登場し365歳まで生きたとされるエノクに由来します。

同協会にはヨーロッパ企業と日本企業合わせて52社(2023年2月現在)が加盟していますが、その中で最古の企業は石川県で温泉旅館「法師」を運営する善吾楼。設立は718年(養老2年)です。

ヨーロッパで最古の企業はドイツの金属加工メーカー「The Coatinc Company」ですが、設立は1502年なので創業520年。金剛組や五位堂工業、善吾楼の半分にも満たないのです。

日本には多数の老舗企業があるだけでなく、他国と比較して企業年齢が圧倒的に高い。現代のビジネスパーソンが学ぶべき対象企業が多数存在することになります。

老舗企業ほど実力主義!?

老舗企業と言えば、ぼんぼん育ちの創業家の長男が後を継ぎ、優秀でなくても番頭が経営を支える、といったイメージがありませんか。

しかし、老舗企業の後を継ぐというのは甘いものではありません。例えば、世界最古の金剛組では、分家が継承したり、外部から婿を取ったりしているケースが多いのです。

静岡文化芸術大学の曽根秀一教授の調査によると、江戸時代初期の第25代から第40代までの当主のうち、10人の当主が長男以外、もしくは他家から登用された人物です。

金剛家では直系長男であっても、当主に適任でないと評価されれば当主になれませんでした。また、いったん当主になっても、能力不足と見なされれば解任されて、家から追放されることもありました。

中庄は1783年(天明3年)に創業した紙の専門商社。

初代・庄八が定めた家憲の中には「当主の実の長男には後を継がせず、他家から優秀な養子を取って後継ぎにする」と書いてあります。

2代から6代までは養子継承が続きました。養子として中庄に入った人たちが中庄の基盤を築いたのです。

老舗企業は実力主義であり、当主の長男に生まれたからといって、のんびりしていられるような甘い体質ではありません。

もしそうであったならば、現代まで継続することはなかったでしょう。

実は失敗に寛容な老舗企業

老舗企業は代々同じ事業を営み、新しいことに手を出して失敗など許されないと思われがちです。しかし、老舗企業は前向きな失敗に寛容です。

お酢、みりん、納豆などで有名なミツカンは失敗を恐れないチャレンジング企業です。

現在の愛知県半田市で酒造業を営んでいた初代の中野又左衛門が1804年(文化元年)に分家独立し、お酢の醸造を開始したのがミツカンの始まり。

かつてミツカンがビール事業を手掛けていたことを知っていますか。

ビール製造には、お酢の製造技術が役に立つので、関連性がないわけではありません。

1889年に「丸三麦酒(まるさんびーる)」を発売し、1896年には「丸三麦酒株式会社」を設立しました。一時は国内シェア第5位でしたが、競争が厳しく儲からないと判断し、事業を売却しました。

1971年にはハンバーガーショップ事業を始めました。

マクドナルドが銀座に第1号店を出店したのも1971年のことです。

ミツカンは「ハンダス」という名称のハンバーガーショップを東京都内を中心に展開しましたが、マクドナルドなどとの競争が厳しく約10年後に事業撤退しました。飲料事業やカット野菜の製造・販売でも失敗した経験があります。

一方、1997年に参入した納豆事業では大成功を収めています。お酢の製造で培った菌の発酵技術は納豆製造にも役立つのです。現在、日本の納豆業界では第2位のメーカーであり、納豆はミツカンにとって重要な主力製品です。

ミツカンは老舗企業ですが、前例踏襲型の保守的な企業ではありません。酒造業からスタートしてトライアンドエラーを繰り返しながら今の地位を築きました。

財テクに走らず本業重視

香川県に本社のある小野は1911年(明治44年)の創業で、関東・関西・中四国地区で大型手芸専門店「ドリーム」を101店展開しています。

第3代社長の小野耕一氏は「投資が成功しても失敗しても商売には良くない。土地や株で儲かると現在行っている商売が馬鹿らしくなる。損をしても痛手。また、気になって本業が手につかなくなる。投資に手を出して良いことは一つもない」と常々言っていたそうです。

小野はバブルに浮かれて財テクに手を出さなかったので、バブル崩壊の影響をほとんど受けませんでした。現在は4代目の兼資氏が社長を務めていますが、本業重視で実質借金ゼロの堅実経営です。

仙台市に本社を置く藤崎は1819年(文政2年)創業の老舗百貨店。バブル末期には売上高・営業利益が過去最高となりました。当時は利益を財テクに投入する企業が珍しくありませんでしたが、藤崎は利益を活かして赤字部門の整理に着手し、系列会社12社のうち8社を清算しました。

株や不動産投資にはいっさい手を出さなかったことで、バブル崩壊後も業績を大きく悪化させずにすみました。

住友家の家訓の中にある「確実を旨とし浮利に趨(はし)らず」とは投機的な経営を戒めた文章として有名ですが、住友家に限らず老舗企業が最も重視するのは本業。たとえ家訓になっていなくても、老舗企業には投機を許さない雰囲気があるようです。

ここまで紹介してきた企業は非上場企業ですが、上場企業の中で最古企業は松井建設です。

石川県で創業し、現在は東京都に本社を置いています。

創業は天正14年。「大正」ではなく、「天正」。戦国時代末期の1586年です。同社の有価証券報告書の沿革欄は「当社は、現会長16代の祖、角右衛門が天正14年前田利長公の命を受け、越中守山城の普請に従事し、……」という文章で始まります。

松井建設の創業者・角右衛門が前田利長に城の建設を命じられたのがきっかけで松井建設が生まれました。

前田利長とは、加賀藩(石川県)の始祖である利家の長男。利家は豊臣秀吉の盟友として有名な人物です。

「当たり前のこと」を続ける老舗企業の価値

寺社建設を得意としていますが、それだけを手掛けてきたのではありません。

同社は関東大震災(1923年)の後に東京へ進出し、一般建築を手掛けるようになりました。

[図表2]老舗企業の共通点

その後、第2次世界大戦後に連合国軍の家族宿舎を受注したのが成長のきっかけです。

過去の代表的な施工例として、小田原城や金沢城の再建工事のほか、東京都庁第一本庁舎などが挙げられます。

また、学校や病院、ソーラー発電所の建設も手掛けています。

戦国時代に創業した企業ですが、建設という本業から外れず、建設の中で様々な分野にチャレンジしつつ今日まで成長してきました。

「実力主義」「失敗への寛容さ」「財テクの禁止」「本業重視」など老舗企業には共通点があります。

当たり前のことを続けてきたとも言えますが、当たり前のことをきちんと実践するのは難しいことです。ベンチャー企業だけでなく、老舗企業にも目も向けることで、皆さんのビジネスや転職の幅が広がることでしょう。

田宮 寛之

東洋経済新報社

記者・編集委員・経済ジャーナリスト