Googleマップで発見、なぜこんな場所に日本人の墓? 絶海の孤島の謎を調べてみた

 グーグルマップで遊んでいたら、北太平洋にぽつんと浮かぶミッドウェー諸島に、明治時代の「櫻井又五郎」という名の墓を見つけた。

まさに絶海の孤島という立地にある櫻井又五郎さんの墓 ©2023 Google

まさに絶海の孤島という立地にある櫻井又五郎さんの墓 ©2023 Google

 墓の存在に気づいたのは2020年9月。新型コロナウイルス「第2波」で自粛ムードが漂う中、せめて旅行気分だけでも、と(グーグルマップで)太平洋の島々を巡っていた時だった。

 深夜にスマホの中の墓を見つめながら、素朴な疑問が浮かんだ。100年以上も昔、櫻井さんはなぜこんなところに? こつこつと調査を重ね、結論には至っていないが、ひとまず経過をまとめてみたい。何か情報をお持ちの方は、ぜひお寄せください。(デジタル編集部・谷岡聖史)

ミッドウェー諸島(環礁) ホノルルから約2000キロ北西、東京都心から約4100キロ東南東にあり、大小2島からなる。世界複合遺産でもある北西ハワイ諸島の一部だが、行政上はハワイ州ではなく、米連邦政府の魚類野生生物局が直接管理する。長らく無人島だったとみられるが、20世紀初頭から国際電信ケーブルの経由地や民間の空港、米空軍の基地として利用され、現在は自然保護の専門家が活動。

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ミッドウェー諸島サンド島のJapanese Markers(日本人の墓) ©2023 Google

◆墓には何が書いてあるか

 マップ上でミッドウェー諸島西側のサンド島を拡大すると、「Japanese Markers(日本人の墓)」が3基ある。向かって右側の墓は「東京府下 櫻井又五郎之墓 明治三十二(1899)年十二月」と読めた。1942(昭和17)年のミッドウェー海戦の40年以上前だ。中央と左側の墓にも「インターアイランド船員」「南无阿弥陀佛」などの日本語が彫ってある。

 マップ上の画像を飽きるほど眺めた後、こう思った。墓の裏側や側面に何かヒントがあるのでは?

黄色い鎖で囲まれた墓。周りには多くのアホウドリがいる。 Courtesy of FWS/Midway Atoll National Wildlife Refuge

黄色い鎖で囲まれた墓。周りには多くのアホウドリがいる。 Courtesy of FWS/Midway Atoll National Wildlife Refuge

 疑問を持ったら現場に行くのが記者の基本。とはいえ、ミッドウェー出張の経費はまず認められないだろう。島を管理する米政府のミッドウェー環礁国立野生生物保護区に「この墓について何か知らないか」とメールを送った。

 だが、音沙汰なし。質問内容が怪しすぎて無視されたのかも…。通常業務(当時は歌舞伎などの担当)の合間を縫って、国立国会図書館やネット上で情報収集する日々が続いた。

 すっかりメールのことを忘れかけた1カ月後、ハワイにいる担当者パメラ・レップさんから返信が届いた。「日本人の墓碑の図解」という題名の文書や墓の写真が添付されていた。文書は保護区のパソコンから探し出したもので、作成者や時期は不明だというが、墓の文字が日本語で書き起こしてある。そこから次のことが新たに判明した。

右側の「櫻井又五郎之墓」 Courtesy of FWS/Midway Atoll National Wildlife Refuge

右側の「櫻井又五郎之墓」 Courtesy of FWS/Midway Atoll National Wildlife Refuge

 まず、グーグルの画像で「又五郎」と読める櫻井さんの名前について、文書は「丈五郎」としている。送られてきた写真を見直すと、確かに「丈」と読めなくもないが、部分的に崩れているため断定はできない。

 建立した人物や時期も分かった。左右の墓は1911(明治44)年4月1日に「愛知県人竹内四郎」が建てた、と側面に書いてある。1899年が櫻井さんの没年だとして、その12年後だ。中央の墓はさらに5年後の1916年6月17日付。櫻井さんの名前に「他四名」と添えられており、5人分の墓であるようだ。

◆明治の日本人が夢見た「無人島で一獲千金」

 まだ飛行機もなかった時代。櫻井さんは、数千キロも離れた太平洋の小島までなぜ足を運び、生涯を終えたのだろうか。公文書をネット上で閲覧できる「国立公文書館アジア歴史資料センター」で調べると「ミットウエイ島鳥毛採集事業大畧書」という文書があった。1901年に野澤源次郎さんという貿易商が政府に提出したという。

「ミットウエイ島鳥毛採集事業大略書」
アジア歴史資料センター、原本所蔵:外務省外交史料館(https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041160100)

「ミットウエイ島鳥毛採集事業大略書」 アジア歴史資料センター、原本所蔵:外務省外交史料館(https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/B03041160100)

 この中に「数年前本邦人水谷新六南洋探検ノ際該島ニ無数ノ信天翁群居セルヲ発見致シ爾後本邦人ヲ率ヒ年々其羽毛ヲ採集シ…」とある。水谷新六さんという人物が南洋を探検した際、ミッドウェー諸島に多数の信天翁(アホウドリ)が群れているのを見付け、その後日本人を連れてアホウドリの捕獲に出掛けるようになった、という内容だ。

 「アホウドリを追った日本人」(2015年、岩波書店)などの著書がある平岡昭利・下関市立大名誉教授によると、この時代、高値で取引されたアホウドリの羽毛で一獲千金を夢見る日本人がこぞって無人島探検に出かけた。水谷さんもその1人で、日本最東端の南鳥島(東京都小笠原村)を発見した人物でもある。

 櫻井さんの墓に刻まれているのは1899年。ミッドウェーでは1901年の「数年前」から水谷さんがアホウドリを獲っていた。つまり、櫻井さんは水谷さんのアホウドリ捕獲に加わってこの島に上陸した、という推測が成り立つ。

◆南鳥島の発見者、水谷新六との関係は

 ただ、ミッドウェーでのアホウドリ狩りは密猟。櫻井さんについて「資料はなく、特定は難しい」と平岡さん。無理を承知でさらに調べてみた。

 まずは、水谷さんを手掛かりに情報を集めた。前出の野澤さんが社長を務め今も続いている歴史ある商社「野澤組」(東京都千代田区)を訪れ、社外秘の古い資料を読ませてもらった。だが、同社との関わりは意外と薄かったらしく、水谷さんや櫻井さんの名前は見つからなかった。

中央の黄色い背表紙が『青柳徳四郎交易日記』=東京・青山のアジア太平洋資料室で

中央の黄色い背表紙が『青柳徳四郎交易日記』=東京・青山のアジア太平洋資料室で

 さらにさかのぼって水谷さんの人生を調べると、墓の年代より10年ほど前の1890~91年にミクロネシアの島々を巡っており、同行した「青柳徳四郎」という商社員の航海日記を読むと「桜井」という名前が何度も出てきた。

 ついに櫻井さんの足跡が分かった!と喜んだが、青柳さんのひ孫にあたる幸治さん(77)=福島県白河市=に電話してみると、日記が発見された土蔵には「桜井市太郎」名義の手紙も残っていたという。日記の「桜井」は、墓の「櫻井又五郎」とは別人なのかもしれない。

 墓が建つ1911年より前に、すでに日本人の死者が島にまつられていた記録も見つけた。

 1906年9月、横浜から米国へ向かう客船「モンゴリヤ号」がミッドウェーで座礁し、数十人の乗客が上陸した。その1人、評論家の戸川秋骨さんの著書「欧米紀遊二万三千哩」(1908年、服部書店)によると、島の墓地の中には「二人の日本人の木標があつた。ひとつにはたしか小林と記されてあつた」という。ひょっとすると、もう一つが櫻井さんのものだったのだろうか。戸川さんは「以前此島に幾人かの邦人が来て数多の鳥を捕獲」したとの話を聞き、「島の砂の内に眠れる人も、それ等の仲間であつたらうか」と推測している。

戸川秋骨『欧米紀遊二万三千哩』1908年、服部書店。国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/760952)

戸川秋骨『欧米紀遊二万三千哩』1908年、服部書店。国立国会図書館デジタルコレクション(https://dl.ndl.go.jp/pid/760952)

 「国民過去帳」「人事興信録」「大衆人事録」といった人物名鑑、国や都の公文書、官報、水産・海運関係の業界紙や機関誌、当時のハワイの汽船会社と思われる「インターアイランド」や「愛知県人竹内四郎」について…。その後も自分なりに手を尽くして調べているが、先には進めていない。

 結局、櫻井又五郎さんはどこで生まれ育ち、どんな人生を送った人なのだろう。赤の他人だが、なんだか他人とは思えなくなってきた。今後も折を見て調べてみたい。