東京通信工業が「SONY」になったナルホドな経緯世界中で通じる名前をいかにして考えたか

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ソニーの大黒柱として活躍した盛田正明氏。日米半導体戦争の真っただ中、アメリカへ行った理由を紹介します(写真:yu_photo/PIXTA)

ソニー創業者の1人・盛田昭夫を長兄とする、盛田きょうだいの三男として生まれた盛田正明氏。

1951年に東京工業大学を卒業すると、東京通信工業(現在のソニー)に入社。世界のソニーの大黒柱として活躍しました。リタイア後もテニス業界をバックアップし続け、錦織圭をはじめ多くのジュニア選手の育成に尽力し続けています。

そんな盛田氏は、リーダーシップをどうやって培い、実際に、どのように発揮してきたのか。
著書『人の力を活かすリーダーシップ:ソニー躍進を支えた激動の47年 錦織圭を育てた充実のリタイア後』より一部抜粋・再構成してお届けします。

東京通信工業が「SONY」になった経緯

1950年代では、企業の社名は堅いものが多く、例えば、松下さんは松下電器産業、東芝さんは東京芝浦電気、みんな漢字で、それが立派な会社だと思われていました。

ソニーも東京通信工業株式会社という立派な名前でしたが、われわれは、東京通信工業を、東通工と略して呼んでいました。昭夫は、「それじゃあ海外では通じない」ということで、世界中で通じる名前をいろいろ考えることになりました。

当時、日本では、「sonny boy」という、かわいい坊やを意味する言葉がはやっていました。それと、ラテン語の音を意味する「sonus」という言葉との組み合わせによる造語で、『SONY』ソニーとなりました。「損」を連想させる「Sonny」(ソンニー)は避けました。

今は何ともないですけど、あの頃は、化粧品以外そんな語感の名前はなかったので、みんな「えぇっ!?」という感じでした。世の中の人たちも同じだったと思います。ただ、語呂は良かったです。やはり海外に行くには必要な名前だと思いました。

『SONY』に決めた理由の1つとして、世界で3文字の会社がいっぱいあったことがあります。ABC、CBS、NBC、IBM、みんな3文字なんです。ソニーはユニークにしたいと考え、4文字にしようということになりました。加えて、世界の全部の国で、「ソニー」と発音してくれないといけない。国によっては、変な発音になる可能性がありますから。調べていくと、『SONY』ならどこでも「ソニー」と読んでもらえることがわかりました。あの頃、まだあまり大きな会社ではありませんでしたが、世界中で商標登録をしました。

松下さんが、『National』ブランドで海外へ進出したとき、すでにいろんな国で同じブランド名があって、海外用に『Panasonic』を作ったのですが、われわれは、その話を知っていたので、結構お金がかかったと思いますけど、100カ国以上で商標登録をしました。だから世界で通じるようになったと思います。

あの頃、ちょっとこれはいい名前だと思うと、みんなまねをして名前をつけました。日本でも、ソニーがちょっと良くなったら、飛行機に『SONY』と書いたおもちゃが出たりしました。

これらの動きに関しては、昭夫が、先見の明というか、大事なところにはちゃんと投資をしてやるということに関して非常にうまかったです。

そして、1958年に、社名が東京通信工業株式会社からソニー株式会社に変更されました。ちなみに、テープレコーダーの開発をやっていたとき、『SONI‐TAPE』(ソニ・テープ)と書いたものがありました。『SONI』もソニーの登録商標です。

ソニーが海外市場を開拓する必要性は、いつも考えられていました。

あの頃、海外で日本製と言えば、例えば、ナイアガラの滝のおみやげ店におもちゃが置いてあって、それを見ると「メイドインジャパン」と書いてありました。残念ですけど、メイドインジャパンと言うのはあまり良いもののイメージではありませんでした。少し前の中国製品がそうでしたね。メイドインジャパンは、世界中どこに行っても、おもちゃの安物というイメージがありました。そのときに昭夫は、「やはり胸を張って売れるものを世界に作りたい」と感じたといいます。

当然のことですが、そのためには、よその会社がやらないことをやろうという井深さんのポリシーも必要でした。

日米半導体戦争の真っただ中、アメリカへ

私がアメリカに初上陸したのは、20代の頃でした。ありがたいことにアメリカを見て勉強してこいと言ってもらえたのです。サンフランシスコから南を回ってニューヨークに行きました。

当時の飛行機は、サンフランシスコまでノンストップで行けず、日本とハワイの間にあるウェーク島に着陸して、アメリカ軍の基地がある場所で燃料補給をしました。

それからハワイに行って、サンフランシスコに着きます。

当時のアメリカには、日本になかった高速道路があって、ものすごい数の自動車が走っていました。これは戦争で日本がアメリカに負けるはずだというのが第一印象でしたね。

ソニーにとってアメリカは非常に大きな市場と考えて、ソニー・アメリカ(ソニー・コーポレーション・オブ・アメリカ=以下ソニー・アメリカ)は、昭夫が渡米して1960年にソニーのアメリカ本社として設立。当初は販売会社としてスタートしました。その後、日米貿易摩擦の影響を受けて、アメリカ現地での生産を始めるようになっていきます。

1980年代、日本経済は好調でした。円安で輸出企業にとって有利に働きました。その中でも半導体産業は、1988年に日本のシェアが約50パーセントに達していました。日本は、随時読み出し/書き込みができるDRAMという半導体メモリで技術的に優位に立っていました。半導体は〝半・導体〞であり、絶縁体と導体の中間、電気を通したり、通さなかったりする機能を持つものです。

ソニー・アメリカを製造で利益が上がる会社に変える

ところが好事魔多しで、こうした日本の躍進に対してアメリカでは日本脅威論も噴出して、日米貿易摩擦が起こり、1980年代から1990年代にかけて日米半導体戦争が繰り広げられました。

アメリカからしてみたら、自分の〝オハコ〞を取られた感じで、半導体インダストリーにとって、ものすごいショックだったのでしょう。そうすると、アメリカのロナルド・レーガン大統領が仕掛け人となって、1986年に不平等といわれた日米半導体協定(第1次1986〜1991年、第2次1991〜1996年)が締結されました。1996年に協定が終了したときには、バブル崩壊と円高も相まって、日本企業は弱体化していくのです。

日米半導体戦争が繰り広げられていた1987年に、私は、ソニー・アメリカへ行くことを志願しました。ソニー・アメリカは、ソニーのうちの3分の1くらいのマーケットを占めるぐらい大きかったです。3分の1がアメリカ、3分の1がヨーロッパ、日本を含めたほかの地域が3分の1という割合でした。

私が赴任した頃、アメリカにはサンディエゴなどに工場があったのですが、あくまで販売が主体で、社内には〝販売が上で製造は下〞という妙な意識が根付いていました。

私は製造をやってきたので、プロダクションから利益を生むのが製造会社の役目で、販売会社の言うとおりに製造をやっていても儲かるはずがないと考えていました。

ソニー・アメリカの損益を見ると、決して良くなかったのです。ソニーグループの大きな割合を占めるソニー・アメリカを何とか良くするには、私は製造で利益が上がる会社に変えなければ、1つの会社としてはやっていけないと思いました。だからこそ、私は60歳になっていましたが、やらせてほしいと言ったのです。

私としては日本式も良いですが、アメリカのやり方も悪くなかったですし、非常に楽しかったです。やりがいもありました。

製品計画は、東京本社の製造部がやってくれます。ソニー・アメリカは、その中から売れそうなものをチョイスして売るわけです。

さらにソニーには、半導体主体で攻めるというよりも、アメリカになかった商品を売っていくという考えがありました。また、ソニー・アメリカで、私は、組織を販売と生産に分けて、安藤国威さんに生産部門のトップをやってもらいました。

1980年代後半から日本が一番の上がり調子だった理由

私は、日本で工場を作ることを得意としていましたから、その手腕をアメリカでも発揮して、製造をいかに効率よくして、そこから利益を出させるか。それから販売をいかに効率よくやるかに注力しました。ラジオ、テープレコーダー、メインはトリニトロンのカラーテレビ。それからVTRも扱いました。そして、各工場の従業員にやる気を出してもらえるよう何度も現地に足を運びました。

1980年代の後半から90年代の前半は、ソニーというより、日本は一番の上がり調子の時期で、マンハッタンの有名なビルを日本企業が買ったりしていました。

ソニーは、1988年にCBSレコードを買収したり(現在のソニー・ミュージックエンタテインメント)、1989年にハリウッドの映画会社コロンビア・ピクチャーズエンタテインメント・インク(現在のソニー・ピクチャーズ エンタテインメント)を買収したりと、大型の投資を続けていました。

どうして日本はこんなに伸びているのかということを、アメリカ人からよく聞かれました。また、スピーチをしてくれと頼まれてよく話したことがありました。

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私の答えは極めて簡単で、「アメリカ人よりうんと働いた」と。私も本当に働きまくりましたから。

終戦後しばらくは、残業時間は何時間という規制や強制的に休暇を取らなければいけないことなどありませんでしたし、それこそみんな死ぬ気で働いたものです。私がアメリカへ行ったのは、日本が豊かになって、みんなだんだん働かなくなってきた頃です。アメリカの若い人たちのほうが、よほどよく働いていました。「あなたたち、このまま頑張ったら必ず良くなるよ」と話をしたものでした。

要するに、日本人が優れているわけでもなく、よく働いたから調子が良かったというわけです。人間っていうのは、あなたが1でこっちが10、なんてことはありえない。だいたい10と10ぐらいで、あとは働く時間の差で勝負がつくみたいなものです。「だから、日本が伸びているのは決して不思議なことでもないし、珍しいことでもないよ」と、アメリカ人に説明しました。